生命の誕生にかかわり「おめでとう」と言いたい
――なぜ生殖医療の道に進まれたのでしょうか?
「煙火店の四男であった私の父が、花火師にならずなぜかしら産婦人科医になり、その影響を受けて私も産婦人科医を目指しました。1992年、大阪医科大学医学部産婦人科に入局した時の講師が生殖医療の第一線で活躍されていた宮崎和典先生(旧宮崎レディースクリニック院長)でした。当時、不妊治療の知識があまりなかった私にとって、最先端の生殖医療チームを率いる宮崎先生がとてもカッコよく見えました。そもそも産婦人科は、ほかの診療科とは異なり、生命の誕生にかかわれることが魅力的でした。大学病院でしたので、婦人科腫瘍、女性医学、周産期医療、内視鏡手術などすべての分野の研鑽を積ませてもらいましたが、生殖医療はまさに「生命を授ける」仕事で、高い倫理観を必要とするダイナミックな医療であると思い、専門領域として選択しました。
入局して1年後、宮崎先生がクリニックを開設するために退職され、その後の大学の生殖医療を先輩の先生方とともに発展させてきました。当時はまだ胚培養士制度がありませんでしたので、採卵、受精、培養、出産まですべて医師が行っていました。自分で初めて凍結融解胚移植を行った方が双子の赤ちゃんを妊娠された時はとても感動したのを覚えています。その達成感が原動力となり、病棟医長、医局長、講師として不妊治療、腹腔鏡手術、学生教育に積極的に取り組んできました」
恩師のクリニックを承継。院長として再スタート
――2014年に宮崎レディースクリニックの副院長を経て、2017年にはうめだファティリティークリニックと改称して、院長に就任されました。その経緯を教えてください。
「入局当時、宮崎先生は研修医の私にとって雲の上の存在でした。同大学では宮崎先生が独立されるまでの1年間しかご一緒できませんでしたが、その後も生殖医療の勉強会や研究会でお目にかかる機会があり、私がニュージーランドに留学中に、先生がご家族で訪問してくださるなど、とても親切にしていただきました。そんななか、宮崎先生に「いつまで大学にいるの? うちに来て一緒にやらないか?」と声をかけていただきました。クリニック承継を前提にした、ありがたい申し出でしたが、その頃、私は大学の仕事が充実しており、独立する考えは正直言ってあまりありませんでした。同期の寺井義人先生(現大阪医科大学産婦人科准教授)が、婦人科腫瘍の次世代のリーダーとして活躍していたので、その刺激もあり、大学で残る以上は教授を目指すことが最終目標であると考えていました。そこで宮崎先生に「いつかどこかで教授選に立候補して、選挙で負けたら大学を辞め、先生のところに行きます」と、申し上げました。
結果的に2012年に他大学の教授選は残念な結果になりましたが、大道正英主任教授のご配慮もあり、しばらく大学で医局長を続け、正式に宮崎レディースクリニックの副院長に就任したのは、数年後の2014年でした。宮崎レディースクリニックへの移籍を決めた理由は、宮崎先生が大学の恩師であり、魅力的なお人柄であるということでした。治療の方針が同じであることは当然ですが、大阪で歴史ある老舗クリニックを承継するわけですから、そのプレッシャーは計り知れず、経営、財政、診療などあらゆる面で擦り合わせが必要になります。先生はそのようなことも含め、「黙って俺についてこい」ではなく、2017年の私の院長就任までを見据えて、承継までのロードマップをクリアにし、計画的に準備して迎えてくださったことも大きかったと思います」
今後の目標はIT化と男性不妊治療の充実
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名誉院長 宮崎 和典 先生
私が大阪医科大学医学部で学位を授与した研修生のなかで、山下先生は5人目ですが、彼が後継者として一番理想的だと思っていました。私の独立後も付き合いがあって、気心が知れていたこともありますが、彼は他者への気づかいができて仲間も多い。人間的に信用できると感じていました。そういう性格なので、旧クリニックのやり方を尊重してくれているのはうれしいですが、時代の流れに応じて、変えられるところは、どんどん変えていってくれればいいと思います。時にはお互いの意見がぶつかることもあるかもしれませんが、その時はその時です(笑)。とにかく彼にすべて任せているので安心しています。私の時代にできなかったIT化を進め、新しい時代をつくってほしいですね。
出典:女性のための健康生活マガジン jineko vol.37 2018 Spring
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