HOME > 不妊治療 > AIH > 【her story vol.65[前編]】長きにわたる不妊治療、流産、死産を乗り越えて
HOME > 不妊治療 > AIH > 【her story vol.65[前編]】長きにわたる不妊治療、流産、死産を乗り越えて

【her story vol.65[前編]】長きにわたる不妊治療、流産、死産を乗り越えて

コラム 不妊治療

【her story vol.65[前編]】長きにわたる不妊治療、流産、死産を乗り越えて

【her story vol.65[前編]】
自分が経験した悲しみ、喪失を学びに代えて
相談室を開設。そして、自分が産めなくても
育てることはしてみたいと夫に伝えました。

2020.2.28

あとで読む

コウノトリこころの相談室の不妊カウンセラーとして、
ジネコの妊活セミナーにもご登壇いただいた池田麻里奈さん。
不妊治療を終え、池田さん夫婦は特別養子縁組制度を選択しました。
約15年におよぶ池田家のストーリーを前編、後編でお伝えします。


※2020年2月25日発刊「女性のための健康生活マガジン jineko vol.45 2020 Spring」の記事です。


子どもが欲しいのにできない。35歳を目前に気持ちは焦り…


海に近い素敵な一軒家で出迎えてくれた池田さん親子。ここに至るまでには長いストーリーがあります。
麻里奈さんがご主人と結婚したのは28歳の時。結婚式では「子どもは3人欲しいです!」と公言していました。ところが、2年経っても妊娠に至りません。当時は結婚して2年妊娠できなければ“不妊”と定義されていた時代。不妊専門クリニックについても情報がなく、近所の産婦人科で“不妊の日”があることを知り相談するも、タイミングを取るくらいで、今までやってきたことと変わりがありませんでした。


そんな時、ある不妊専門クリニックの存在を知り、早速麻里奈さんは訪れます。そこでようやくクロミッドⓇを服用し、人工授精へステップアップ。「不妊検査をしてやっと一歩踏み出せた感じでした」といいます。


人工授精2回目。麻里奈さんははじめて妊娠しますが、残念ながら稽留流産。その後も人工授精を続け、6回トライしたあと体外受精へステップアップ。この体外受精の5回目で2度目の妊娠をします。ところが、この妊娠も8週で流産。当時34歳。35歳を目前に周りの友達も妊娠のピークを迎えていたころ。次第に焦りを感じ始めます。


 


「養子は考えていない?」その言葉が頭を離れず…


不妊治療中、社会学者の方から不妊治療に関するインタビューを受けた麻里奈さん。その時に「特別養子縁組は考えていないのですか?」と聞かれたそう。
「その時は、養子縁組って海外であることじゃない? 日本にそういう子どもが本当にいるの? というのが率直な感想で…。確かこの時は、自分と血の繋がった子が欲しいです、と答えていました」

ただ、その後特別養子縁組とはどういう制度なのか気になり、調べ始めたのだそうです。そして、親が育てられない赤ちゃんは乳児院へ行き、その後、児童養護施設に移って18歳で施設を出なければならない、ということを知ります。


「当時知り合ったほかの研究者の方に、施設で育った子がアフターケアを受けている場に行こうと誘われたんです。そこで知ったのは、施設を出た後の人生がとても大変だということ。“施設育ち"というだけで、バイトさえ断られたり、頼るべき親もいない…。社会から自立の第一歩を絶たれてしまっているんです」
18歳にして、挫折を味わっている子どもたちを見て、困ってからケアするのではなく、こういう環境にならないようにするためのケアが大事だと痛感したそうです。


特別養子縁組のシンポジウムにも参加し、覚悟を決めて里親や特別養子縁組で子どもを受け入れようとしても、国のシステムは動いていなくて、手続きがスムーズに進まないという事実も知りました。特別養子縁組の勉強をしながらも、やはり二度妊娠をしたという事実があり、希望は捨てられませんでした。ご主人からは「自分の子どもを見たい。養子を育てる自信はない」とはっきりと言われたそうです。


 


待望の妊娠が死産に…。頼る人がいない事実を知る


二度の流産を経験し、また前向きに頑張ろうという気持ちにはなれなかったという麻里奈さん。もしかしたら“不育症”なのでは…と感じ別の病院を訪れます。調べても、不育症かどうかはグレーゾーンでした。そこで、もともとあった子宮内膜症の手術をすることに。この手術で、卵管と卵巣がぴたっと癒着していたという事実が判明しました。
「これじゃあ何度タイミングを試してもダメだったってことですよね。もうこの後は体外受精で頑張ろうと思えなくて、人工授精に戻したんです」


手術の翌年、三回目の妊娠が判明。36歳の時のことです。不安だった初期が過ぎ、お腹のふくらみも目立ち始めた妊娠7カ月のこと…。病院で心音が聞こえないことを告げられます。今度は流産ではなく、死産。あとちょっとで会えると思っていた赤ちゃんとの突然の別れ。機械的に進められた出産のあと、心の傷に加えて、母乳がたまり破けそうなほど痛くてたまらないおっぱいの張り。だけどこの痛みに産院は対応してくれません。街のおっぱいマッサージ店に相談してもこの事実を話さなければなりません。麻里奈さんの心と体はもう限界に達していました。


「この死産の経験はすべてを変えてしまいました。もう頑張ろうなんて思わなくなってしまいました」
この経験で死産はとてもマイノリティであることがわかりました。「相談する場所もないし、周りにどう説明したらよいのかもわからない。当時、私は必死に頼る場所を探して、ようやく行きついたのがグリーフケア(喪失と立ち直りに寄り添うケア)でした。このケアを受けながら、今まで不妊カウンセラーの資格はもっていましたが、死産も当事者として学びにしなければならないと痛感しました」
こうして自らの経験を通し、麻里奈さんは、2013年「コウノトリこころの相談室」を立ち上げたのです。


 


子宮腺筋症で子宮全摘夫へ自分の思いを伝える


「コウノトリこころの相談室」では不妊の相談、流産・死産のグリーフケア、そして特別養子縁組について学ぶ機会を提供することを軸に活動をスタート。さらに、都心からの転居を決め、その準備にも追われるようになりました。
「不妊治療は諦めるというより、新居のことを優先したら、自然に気持ちが切り変わりました。治療は全力でやったので、悔いもなかったです」


その一方で、毎月の生理痛が悪化、毎回陣痛のような痛みでひと月のうち一週間はまったく動けないという日々が続きます。そして婦人科ではじめて子宮のMRI検査をすると、子宮腺筋症であることがわかりました。子宮筋層が、なんと背中にまで広がっていたのです。
「医師からは、子宮全摘をすすめられました。夫に相談したら、自分だったら何を失う気持ちなんだろう…と親身になってくれて、それが何よりも嬉しくて。それまでにいろいろな喪失を受け入れていたので、すんなり全摘することを決意できました」


2017年の年末、子宮全摘出。この時、麻里奈さんはご主人に自分の思いをつづった手紙を書きました。その内容は「子どもを育ててみたい」という気持ちがあること。
「この先、40年くらいあるだろう人生。二人でもいいけれど、子どもを育ててみたいという気持ちを夫に知っておいてほしかったんです。心の奥にこんな想いがあるということを伝えておきたかったんです」
数日後、ご主人から返ってきたのは「わかったよ、つきあうよ」という言葉でした(夏号に続く)。


 


 



出典:女性のための健康生活マガジン jineko vol.45 2020 Spring
≫ 掲載記事一覧はこちら


あとで読む

この記事に関連する記事

この記事に関連する投稿

女性のためのジネコ推薦商品

最新記事一覧

Page
top